日本共産党 田村智子


20070615 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(1)

人の胸を打つ旋風


記念撮影の求めに応じる、田村智子参院東京選挙区候補
(2007年6月2日/中野駅北口)

 合唱で鍛えた、よく通る声。身振りを交えた演説に、買い物帰りの人も思わず足を止めます。本番並みの遊説で、東京を駆ける日本共産党の田村智子参院東京選挙区候補(41)です。昨年一月二十五日の出馬表明以来、車の走行距離は約四万一千`b。これは地球一周に匹敵します。一週間、密着して見えてきたのは、智子旋風≠ニもいえる行く先々での変化でした。  (板倉三枝)

 次の場所へと小走りで移動する田村候補に一人の女性が駆け寄りました。豊島区に住む草崎今予美(きよみ)さん(68)。「お嬢ちゃんに」とちりめんで作った貝のアクセサリーを差し出します。  「まあ!」と旧知の間柄のように手を握り締める田村さん。「『しんぶん赤旗』で小学二年生と六年生のお子さんがいらっしゃるって知りましてね。近寄れなかったら、それまでだと思ったんですけど」。今予美さんもうれしそうに語ります。

介護の合間ぬって
  田村候補が来ると聞き、夫(75)の介護の合間をぬって家を飛び出しました。
三十代後半で筋ジストロフィー系の難病になった夫は、一人では着替えもままなりません。今予美さんが介護をしながら食堂やスーパーで働き、家計を支えてきました。今は年金暮らし。でも、夫の年金は七万円のアパート代に消えていきます。「何とか家賃だけ払えばね、あとは辛抱、辛抱…」 。 田村候補の演説は初めて聞きました。自分たちの苦労をわかってくれている、と感じました。  「つらい思いをすると言ってることが上っ面かどうかわかるんです。田村さんの話はお若いのに心が入っている。皆さんの生活状態や弱者の痛みを消化して訴えられていると思いました」 。 北区の赤羽駅で木にもたれて演説を聞いていた法元(ほうが)豊子さん(85)は、「生涯かけて憲法九条を守る」と語る田村候補の話に胸が熱くなったと言います。  三つ違いの弟は、出征したきり、帰ってきませんでした。病気になって中国東北部の牡丹江に置き去りにされたことまで突きとめました。生還を信じていた母は、戦後十二年たつまで死亡通知を受け取りませんでした。  法元さんが今も悔やまれるのは出征前、「僕たちには青春はないんだ」と嘆く弟を「情けない」となじったこと。「どんな思いで死んでいったのか。一生の負い目です」

戦争しない憲法を守る
 戦後、教員になって民主化運動に身を投じた法元さん。安倍政権の下で戦後、積み上げてきたものが、根こそぎ引っくり返されようとしていることに心底、怒りを感じています。戦争をしないと誓った憲法を守るためには、田村候補を国会に送り出し、日本共産党の議席を増やす以外にない、と考えています。
  「田村さんのお話はビシビシと胸に刺さりました。心が燃えているっていうのかしら。人間の命の大切さに視点あててね。本当のことをしっかりつかまえていらっしゃる。うれしいですよ。あの人に任せられれば」
  杉並区の荻窪駅で、バスを待つ男子高校生が、演説中の田村候補に大きく手を振りました。銀座では、帰宅途中の女性が「こんな力強い候補者がいたんですね」と。二百五十人の聴衆を前に訴えた江戸川区の西葛西駅では、初めて田村智子の名前を知ったという男性が声援を送ります。「いいこと言うねー。今度は田村智子に。誓うよ」

「心根」に照らすと
 迫力があり、わかりやすい田村候補の演説。なかでも印象深いのは、「心根(こころね)」という言葉です。  「心根に照らしてどうですか。今の政治は、本当に皆さんが望む姿になっていますか」 。 前述の草崎さん。夫の筋肉はなえてきましたが、まだ鉛筆を持つ力はあります。  「一本の鉛筆があれば世の中、変わるんです。みんなが選挙に行って、田村さんの名前を書けば、光が見えてくるんです」  (つづく)



20070616 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(2)

「お母さん、大丈夫よ」


自宅の花に水をやる田村智子さん

 静かな反響を呼ぶ田村智子さんのエッセー集『希望の明日をつくる』(本の泉社)。家庭での様子や活動の中で感じたことが、ほのぼのとした筆致でつづられています。  葛飾区にある自宅の庭にはアジサイが咲き誇っていました。その日、小学校二年生の樹李(じゅり)ちゃんがヤゴを学校から持って帰りました。ベビーバスで作った「トンボ池」にヤゴを放す田村さん。「ほら、ヤゴがじーっとこっち見てる」。  四年前、兄の大樹君(小学校六年生)がヤゴを持ち帰ったときは、三匹のうち二匹がトンボになりそこねました。夫の助言で大樹君は、NHKラジオ第一放送「夏休み子ども科学電話相談」に電話します。やりとりは電波で全国に流れました。

働きながら子育てして
 「子育ては、本来、楽しく喜びに満ちあふれたものだと思うんですね。でも、今の社会では、それを実感できるゆとりと安心が奪われているのも現実です」と田村さん。  自身、働きながら子育てしてきました。生後四カ月の大樹君を保育園に預けてまもないころ、園長先生に「お母さん、大丈夫よ」と声をかけられ、涙がこみあげそうになったことが忘れられません。「完ぺきを目指していっぱいいっぱいだった自分に、あなたは十分頑張っていますよ、と寄り添っていただけたように思えて…」 。 「寄り添う」ことの大切さは、日々、新鮮に実感しているといいます。  介護の必要なお年寄り、病気とたたかい、懸命に生きる人、障害者、母子家庭のお母さん…。  「今は、苦しい立場にある人に、もっと自分で頑張れと、むちを打つような政治が続いている」と語ります。憲法を政治と社会のすみずみに根付かせることで、寄り添える政治は実現する、と。  まだ小さい樹李ちゃんは夜、田村さんが出かけるとき、「ギュッとして」とせがみます。作文には、「私のおかっちゃんは、夜八時に帰ってくるっていったのに九時に帰ってきたり、九時に帰ってくるといったのに、十時に帰ってきます」と書きます。夜、母親がいない子どもの寂しさが骨身にしみてわかる田村さん。まして父親のいない母子家庭はどうなのか。


長女の樹李ちゃんが描いたお母さん。
胸にはしっかり憲法9条をあらわす
「9」の文字
児童扶養手当削減に抗し

 田村さんが演説で欠かさないのが、来年四月に実施される母子家庭への児童扶養手当削減問題です。 日本共産党の井上美代参院議員(当時)の秘書だった五年前、子どもが十八歳になる年の年度末まで支給されている児童扶養手当を、支給開始から五年で、最大五割、削減する法案が審議されました。全国から寄せられた訴えを背景に、井上議員は奮戦。なぜ五年で区切るのかと追及し、政府答弁のごまかしを明らかにしました。その質問作りを支えたのが田村さんでした。しかし、「母子家庭の自立の道」だといって自民・公明両党ばかりか民主党も賛成し、削減が強行されたのです。 七年前、離婚した女性(45)は、十八歳と十六歳の子どもがいます。会社の電話番、ヘルパー、団地のごみ出しの後始末と三つの仕事を掛け持ちします。それでも収入は、十五万円程度。十六歳の息子への月額三万七千円余の児童扶養手当が「命綱」です。「お金がないのは一番不安定。だから、子どものために子どもを犠牲にして働かざるをえないんです」。昼も夜もなく働く母子家庭の母親…。 「お母さん、大丈夫よ。あなた一人じゃないよ。夜は子どものそばにいてあげて。その分、しっかり支えるから。そう言える政治を実現したい」。 田村候補の言葉に期待をつなぎます。 (つづく)



20070617 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(3)

少女のころ日曜学校に

 田村候補が演説で、よく引用するのは、松谷みよ子さんの短編「ぞうとりんご」(『きつねとたんぽぽ』に所収)の話です。 「せんそう まだ あるの?」「いいえ、せんそうは もうないのよ。…おかあさんが いうもの、せんそうをしてはいけません! って」

強くて優しい性格の原点
 長野県小諸市にある田村さんの実家・山崎屋文具店の従業員だった上原弥生さん(75)。山崎家の子どもたちに年に一度、プレゼントをしていました。そんな折、小学一年生の田村さんに「何かほしいものなあい?」と聞いたら、少し視線を落としながら「松谷みよ子さんの本をお願いします」と言ったというのです。 「小学一年で作者を指名したのにびっくりしましてね。次の年も松谷みよ子さんでした。本をめくったら、戦争のことが載っていました。戦争体験のない智ちゃんが、戦争の恐ろしさを小さな胸に刻んで…。強くて優しい智子さんの原点はここにあると思っています」。 「智ちゃんは誰にも同じ態度で接した」と語る上原さん。子どものいない自分を気遣い、田村さんが母の日にくれた手紙を、三十年以上たった今も大切にしています。 書道の塾もガールスカウトも一緒だった幼なじみ(41)は、「智ちゃんが人の悪口を言っているのは聞いたことがない」といいます。倉庫でのかくれんぼ、劇団ごっこ…。「頭いいのにそう感じさせない。いつも楽しいことを考えてましたね」 。日本共産党からの立候補も、「智ちゃんなら考えられるかなー」と。 「自民党とか民主党って、知名度だけでその人の生き方や考え方は関係ないって感じじゃないですか。智ちゃんは困ってる人をほっておけない。自分の損得勘定なしにできる人だから、共産党が合っている」 。浅間山のふもとにある小諸市の実家は、八十四年の歴史を持つ「紙・文具卸商」でした。今は両親だけで続けています。

親を大事に誠実に対応
 田村さんは姉、弟の三人きょうだい。子煩悩で子どもたちに読み聞かせをした父・達夫さん(77)はキリスト教信者です。田村さんも、小学校卒業まで日曜学校に通っていました。母・摂子さん(72)は根っからの働き者。「東京に手伝いに行ってやれれば…」と多忙な娘と、孫を思いやります。 早稲田大学に入った娘が、学生運動をやっているらしいと知ったときは達夫さんも摂子さんも、とまどいました。大学卒業後、日本民主青年同盟に就職するといったときは、もっと不安でした。 「そのころでしたか。智子に言われたんです。お母さんの人生じゃない。私の人生だって…」。 田村さんは、「どんな仕事をするのかもわからなかったでしょうから…。そのときの親の気持ちを考えると胸が痛くなります」と振り返ります。 学生時代の仲間(43)は、田村さんが何度も故郷に戻っては両親に理解を求めていたといいます。「誠実で親を大事にする人でしたね」。 田村さんの結婚式。達夫さんは、いい夫と多くの仲間に恵まれた娘を前に、こうあいさつします。「ほっておいたリンゴの木が、きれいに手入れされ、すばらしい木になって、実までつけました」。 今度の選挙で両親は、長野県の日本共産党後援会ニュースにメッセージを載せました。 「いまの日本は、私たち零細企業や大勢の国民が苦闘しています。智子にも、平和な日本、明るい社会を築くため心をこめて全力でがんばってほしい」(父) 「智子を支え、お力添え下さる方々の温かいお心がエネルギーになっていると思います。ありがとうございます」(母) (つづく)



20070619 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(4)

原点はヒロシマ


「6.13文化のつどい」で合唱の指揮をする田村智子
参院選挙区予定候補 13日、中野区

 田村さんの若き日の心を映した文集があります。一九八二年、長野県立野沢北高校二年の修学旅行で広島の原爆資料館を訪れたときの感想をまとめたものです。  「階段を下りかけて突然涙があふれてきたのです。でもどうして泣いているのか誰のために泣いているのかわからないのです。…原爆をつくったのも人間、利用するのも人間、そして同じ人間を苦しめる。こんな悲しいことがあるのでしょうか」。  悲惨な事実があるのになぜ核兵器はなくならないのか。衝撃と疑問は、核兵器廃絶の展望を示した日本共産党の主張と出合うまで続きました。

目の前が開ける思い
  「人間がつくりだした核兵器は人間の力でなくすことができる。あきらめてはいけない、と目の前が開ける思いでした」。  八五年十月、侵略戦争の時代にも反戦・平和を貫いた日本共産党に入党します。早稲田大学二年、二十歳のときでした。歴史を学び始めた田村さん。国連第一号決議が核兵器廃絶を掲げたこと、核兵器全面禁止を世界の共通課題として追求する運動を知ります。  ここにこそ未来があると、日本と世界で広がっていた核兵器廃絶を求める「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名に生き生きと取り組みました。世界の反核ポスター展やミニコンサート、「反核クッキー」作り…。  第一文学部の先輩・燈山(とうやま)文久さん(46)は、キャンパスで田村さんの歌に合わせてギターを弾いた思い出があります。曲は、山本さとしの「ヒロシマの有る国で」。暴力集団「革マル」派の妨害も歌で追い返しました。「とにかく動じない人」と燈山さん。  もともと政治に関心があったわけではありません。一年のとき、学費値上げ反対運動で目覚め、民主青年同盟に加わりますが、日本共産党への入党にはためらいがありました。「親が心配する。その一点でした」。  政治の現実が田村さんを変えました。なぜ被爆国の政府が国連の場で核兵器廃絶に反対するのか。学生時代の後輩(39)は、「真実を知れば人間は変わるのよ」という田村さんの言葉を思い出します。「自分でつかみとった人だから、揺らがなかったですね」

平和を願う一本の道
 それから二十年。田村さんの活動は、平和を願う一本の道で貫かれています。湾岸戦争のときも、自衛隊を海外に派兵する国連平和維持活動(PKO)協力法が成立させられたときも、たたかいの最前線にいました。  「武力を使わず話し合いで解決する憲法九条は世界の宝」と田村さん。いま、任期中の憲法改定を公言する安倍晋三内閣のもと、改憲手続き法の成立が強行されるなど、改憲に向けた動きが急です。子どもたちに「お母さんがいるから大丈夫。日本は決して戦争しない」という母親の決意で、憲法を守るたたかいの先頭にたっています。  早稲田大学の混声合唱団で四年間を共に過ごした友人(41)は、田村さんを「ちこちゃん」と愛称で呼び、「ちこちゃんらしく元気に生きられるのなら」と、日本共産党候補としての活動にエールを送ります。  参院東京選挙区候補が政策を語る七日の学習集会(日本婦人有権者同盟主催)。自民、公明、民主の候補が改憲問題にまともに触れないなか、田村さんはいいました。  「憲法九条には、被爆や戦争の犠牲になった方々の苦しみがすべて詰めこまれています。九条は平和を願うあらゆる人類、とくに日本国民の願いそのもので、実現可能な理想です」  (つづく)



20070622 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(5)

国会の秘書時代


母校である早稲田大学前で学生たちに訴える
田村智子参院東京選挙区予定候補
5月31日、新宿区

 「すごく悲しかった。自分が助けられることは何もなくて…。学びたくても学べない人がこんなにいる」。 日曜日の昼下がり。都内の大学院で宗教音楽を学ぶ女子学生(23)が、田村智子参院東京選挙区候補の応援演説に立ちました。 百五十万円の学費をバイト代で三年間、賄わなければならない、音楽大学に通うバイト先の友人は親がリストラされ、中学・高校時代の制服をインターネットの裏サイトで売って学費の足しにしていた…。「私にできることがあるとしたら、選挙で田村智子さんと日本共産党を応援することだけだと思います」。 田村さんが、社会に目覚めるきっかけとなったのも、早稲田大学が、一九八五年から毎年学費を値上げするスライド制を導入したことでした。



何十万円の入学金なぜ
 九七年、日本共産党の石井郁子衆院議員の秘書となった田村さんは、国立国会図書館に依頼して、各国の家計に占める教育費の割合を調べました。 「驚いたのはフランスです。資料は出せないと言われたのです。そもそも教育費負担という概念がないんですね。大学まで全部無料。日本のように、何十万円と入学金を取っている国も欧米諸国ではありませんでした。日本円にして一万円程度の登録手数料です」。 田村さんが、この資料をもとに、「日本は何の名目で入学金を何十万円も取るのか」と文部省(当時)に問い合わせると、「施設利用の権利でしょうか…」という答えでした。 日本では貸与の奨学金も、欧米諸国ではほとんど返済の必要がないとわかりました。研究の成果は、石井議員の質問に生かされ、「世界最高の学費、世界最低の奨学金」のキャッチコピーとともに反響を呼びました。 そして、今。入学金と初年度授業料などを含む私立大学平均の初年度納付金は百三十万六千円、国立大学でも八十一万七千円です。 「経済状態で教育格差を生んではならない、というのが憲法の精神です。こんな高額の入学金はやめさせ、大学の学費も値下げに向かわせる。子育てには特別な費用の準備をしなくてもよい、というぐらいの施策を打ち出さなければ、有効な子育て支援になりません」と力を込めます。 田村さんは、三十人学級実現にも粘り強く取り組んできました。六年前、野党共同で「三十人学級法案」を提出したことがあります。石井議員が、衆院本会議で野党共同法案の提案者として答弁。日本共産党議員では初めてのことでした。田村さんも秘書として尽力しました。

少人数学級46道府県に
 法案は与党の反対で否決。しかしその後、東京を除くすべての道府県が、少人数学級に踏み出しています。 法案の準備過程で田村さんは、石井議員と町の独自予算で少人数学級を実施していた長野県小海町を視察、町の教育委員会と懇談しました。 「県の教育委員会が文部省に呼びつけられ小海町の取り組みをしっ責されたというんですね。全国に先駆けた実践を上からの圧力でつぶそうとする。国の責任で子どもたちがのびのびと学べる条件を整備することこそ教育行政の役割なのに…」。 劣悪な教育条件には背を向け、教育への国家介入を強める安倍内閣。子を持つ親として、どうしてもこの選挙を勝ち抜かなければと決意を固めます。 (つづく)



20070623 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(6)

国会議員と一体で


若者と一緒に雇用問題についての街頭アンケート
に取り組む田村智子候補

 田村智子さんは、日本共産党の国会議員の秘書を八年、務めました。石井郁子衆院議員のもとでは教育分野を、井上美代参院議員(当時)の秘書時代は社会保障、労働分野を担当。その間に二人の子どもを出産しました。

深夜労働が男女平等
  石井議員は「大変だったと思いますよ。国会議員と一体となって活動する秘書は、きつい仕事で縁の下の力持ち。でも、明るくやり遂げるところが彼女のいいところね」と。 田村さんが石井議員と最初に取り組んだのは一九九七年、労働基準法から女子保護規定を撤廃する法案に対する質問づくりでした。母親になったばかりの田村さんは、女性が深夜労働をすることが男女平等といえるのか、強い疑問を持ちます。 「長時間労働で子どもたちから母親まで奪ってしまう。育児休業法の改正で子育て中の女性には配慮とありますが就学前の子どもがいる場合だけでした。裏返せば子どもが小学生になると、免除の申請もできないのかと」。 当時、規制撤廃に反対したのは共産党だけでした。共産党以外の政党は「構造改革」「規制緩和」の大合唱。派遣労働を原則自由化する労働者派遣事業法改定(九九年)も、企業のリストラを国が財政支援する雇用対策法等の改定(二〇〇一年)も、自民、公明、民主(当時は旧民主党と自由党)、社民は賛成したのです。 「あのときの政治がどれだけの貧困を生み、格差や不安を広げたか。私は、あの政治の間違いを思わずにはいられません」

「家族でも告発OK」
  どうすれば働く者の権利を守れるのか。田村さんは、攻撃をかけられている労働法制であっても権利として行使すれば、大きな力を発揮することを学びます。その一つに、サービス残業の告発は本人でなく家族などでもOK≠ニ政府に言明させたことがあります。 〇一年、新日本婦人の会(新婦人)や労働運動と結んだ日本共産党の奮闘で「サービス残業は違法」との通達を出させていました。しかし、本人の申告しか受けつけない労働基準監督署の機械的な対応が、大きな壁になりました。告発すると不利益を被るのではという不安、長時間労働で本人は足を運べない…。新婦人の会員からは、夫や息子が心配との声が多数寄せられていました。会長だった井上議員と田村さんたち秘書団は、通達を生かすには本人の申告という壁を突破することだと話し合います。 〇二年二月、井上議員らが労働基準局長に会い、「家族の訴えも同等に扱う」と表明させました。政府見解を求めた文書質問への小泉純一郎首相名の答弁書にも、同じ趣旨が盛り込まれました。運動の結実でした。 「大感謝です」というのは、新婦人大阪府本部副会長の沖野純子さん(55)。乳児を抱えた母親と労働基準監督署に出向き、サービス残業を二件是正させました。 「最初は本人でないと…と言われたんですが、家族でもOK、と報じた『新婦人しんぶん』を見せましてね」。 東京労働相談センターには年間二千件を超す労働相談が寄せられますが、一割以上が家族や友人からです。 前澤檀(まゆみ)所長(67)は「答弁書は通達を適用させる大きな足がかりをつくってくれました。相談の中でも答弁書を持っていくことを勧めています。これで監督官が会ってくれたという、うれしい報告もあります」と話します。(つづく)



20070626 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(7)

質問主意書の威力


都立中野養護学校を視察する(右2人目から)
笠井亮衆院議員、田村智子さん、大山とも子都議
06年7月

 「口火を切ったのは共産党の石井郁子先生でした」。大阪府歯科保険医協会の伊津進弘(のぶひろ)理事長(63)は、感慨深そうにこう語ります。

「学校病」の指定見直された
 二〇〇四年四月、学校保健法施行令の改正。一九五八年に制定されて以来、四十六年ぶりに「学校病」の指定が見直されたことは、関係者に大きな朗報となりました。 「学校病」とは、経済的に困難を抱える子どもたちが特定の病気になったとき、国と自治体が治療費を負担する制度で結膜炎やトラホーム、蓄膿(ちくのう)症、寄生虫病などが指定されています。 問題は、子どもたちをとりまく環境の変化や医学の発展に全く対応してこなかったことでした。とくに虫歯の治療は、乳歯は抜歯のみなどと指定されており、時代遅れとの指摘がありました。 大阪府歯科保険医協会は、虫歯治療の方法を健康保険が適応される範囲まで拡大すべきとの要望を出します。 〇一年、石井郁子衆院議員が文書で質問。専門家の協力を得て、田村智子さんも質問づくりに加わります。要望は三年後に実現しました。 伊津さんは「就学援助を受けているお子さんへの差別的な治療を改善することは、長年の懸案でした。限定された虫歯の治療が保険適用の範囲まで広がったことは、久々に明るい話題」と話します。 「内閣総理大臣名で答弁させる質問主意書(文書質問)の威力を感じたのはこのときでしたね」と田村さん。

危険なPCB教室から撤去
 ポリ塩化ビフェニール(PCB)を使った蛍光灯を学校から撤去させたときも、田村さんが作成にかかわった石井議員の文書質問がきっかけでした。調査を依頼してきたのは全日本教職員組合(全教)。
PCBを使った蛍光灯が耐用年数を過ぎ、各地で破損、生徒に被害が出ていると聞いた田村さんは驚きます。六八年のカネミ油症事件を機に毒性が問題になり、製造・輸入が禁止されたはずのPCBがなぜ、いまだに使われているのか。
調べるうちに、すでに流通していたPCB使用器具は規制の対象にならなかったことがわかりました。学校の老朽化で、PCB使用の照明器具も劣化が進んでいること、事故を受け、日本照明器具工業会からは早期交換を呼びかける文書が、都道府県市町村教育委員会あてに送付されていたことも知りました。
二〇〇〇年四月、石井議員は政府に緊急対応を求める質問主意書を提出します。「ところが信じられないことに、政府はPCB使用器具の回収・交換は学校設置者の責任で国の責任ではない、という答弁書をよこしたんです」と田村さん。
数カ月後、また事故が続発します。岐阜市の小学校では一年生の教室で全員避難。北海道の中学校では十七人が吐き気。再度、石井議員は交渉しましたが、それでも文部省(当時)は動きません。
石井議員や井上美代参院議員ら党国会議員団と地方議員、民主団体が連携し、国の対応を求める世論が高まりました。十二月末、ついに〇一年度の予算案にPCB対策予算が盛り込まれ〇一年度中に撤去・交換が実現します。
当時、全教の書記長だった松村忠臣さん(64)は「政府を動かしたことは画期的でした。あのころから教職員への管理統制を強める一方で、肝心の子どもの命や安全はなおざりでした。田村さんは明るくて、いつも真摯(しんし)に向き合ってくれた」と振り返ります。
(つづく)



20070629 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(8)

現場から学ぶ



訴える田村智子参院東京選挙区候補

 「二〇〇三年当時、質問していましたね。何でそこに目をつけたんですか」。 ある全国紙の記者は驚いたように聞いたといいます。〇五年、兵庫県尼崎市のクボタ旧神崎工場周辺住民のアスベスト(石綿)被害が、騒がれ始めたころでした。

石綿被害は公害の様相
  取材は、〇三年三月に井上美代参院議員(当時)が出した「石綿ばく露による健康被害への対策に関する質問主意書」について。記者は、石綿ばく露作業従事者の家族の二次被害が社会問題になる前に、井上議員がこの救済措置を求めていたことに感心して電話をかけてきたのです。 秘書だった田村さんは、記者に「建設現場で働く人は作業着のまま家に帰ります。そういう実態を聞けば、当たり前の対策だと思います」と答えました。 「最初は簡単な文書質問を準備していたんです」。田村さんは、大学時代の先輩から、石綿被害の労災認定がおりないで困っている元造船労働者がいると聞き、調べ始めます。そのとき、東京土建の人から、石綿全体量の九割以上は建材および建築資材に使われていることを教わります。建築基準法が「不燃材料」として「石綿スレート」を建材に指定するなど、石綿建材の普及を野放しにしてきた事実も知りました。 「何も知らずに石綿を吸い続けていたのが、一人親方とその家族でした。これは本格的な対策が必要だと」。 答弁書はほとんどゼロ回答でした。その後、石綿被害は公害の様相を強めます。 〇三、〇五年の総選挙で足立区の衆院小選挙区候補となった田村さんは、被害者家族の相談にも乗ってきました。このほど亡き夫の石綿被害が証明され、労災認定がおりた女性(71)もその一人です。 二年前に肺がんで亡くなった夫が悪性中皮腫だったとわかったのは、田村さんの助言で港区の芝病院に行ってからでした。亡くなる二十日ほど前、テレビを見ながら、「そういえばおれもアスベストを扱ってたんだよな」と突然口にした夫。「もうゾーッとしましてね」。 田村さんに労災認定の申請を勧められました。しかし、夫は亡くなり、勤めていた会社も倒産。給与明細書は残っていませんでした。田村さんは「元同僚でアスベストを使っていたことを証言してくれる人を二人、見つけてください。何でもいいので勤めていたことを証明できるものをなるべく多く探してください」と助言します。

認められた亡き夫の労災
 そして、ようやく見つけ出した、夫が在職していた一九八九年当時の「成人病予防健診個人表」。そこに会社名と健康保険の番号が残されていました。 「労働基準監督署に持っていったらよくここまで…と感心されました。おかげさまで遺族補償年金を頂けることになりました。それもこれも田村さんが事細かに骨を折ってくださったから。井上美代さんの秘書をやってらしたときにアスベストのことを勉強したんだとおっしゃってましたが、ぜひ国会に行っていただきたい方です」。 当事者に耳を傾け、現場から学ぶ―。このことを田村さんは常に心がけてきました。 「田村さんは、怒りをもってこの問題と取り組み、私を助けてくれました。社会問題になる前に国会で取り上げられたのは、秘書であった田村さんの努力の結果です」。井上さんはそう語ります。 (つづく)



20070629 東京版 しんぶん赤旗掲載

参院東京選挙区候補田村智子物語(9)

期待を にない



参院東京選挙区候補が政策を語る
学習集会で発言する田村智子さん

 最近、便利屋を始めた杉並区の野本吉輝さん(68)。「今度ばっかりは共産党と田村智子だよ」と周りの人に声をかけています。

都民の暮らし、身を切る実態
  本業は歯科技工士。しかし、本業の売り上げは年間、百二十―百四十万円程度です。「大工仕事、庭の手入れ、何でもやります」との触れ込みで、やっと生活しています。税金を払えば食えず、食えば払えず=B業者の間ではこんな悲鳴が聞かれます。 田村さんは昨年一月の立候補表明以来、東京中をまわり、身を切るような都民の暮らしの実態を目の当たりにしてきました。 貯金を取り崩して生活をつなぐお年寄りがいました。赤字なのに身銭を切って消費税を納める業者からは「私たちの商売は道楽でやってるんじゃない。生業をつぶすようなことはやめてほしい」と訴えられました。 汗水たらして働く庶民や年金生活者には増税。一方で、労働者の犠牲のうえに空前の大もうけをしながら、応分の負担をしない大企業、財政が大変だといいながら、大型開発など税金の無駄遣いをやめない政府…。 「今の政治、おかしいんじゃないのと言いたいことが胸の中にいっぱいある方は、大勢いらっしゃるんじゃないでしょうか」と田村さん。 「胸の中にある思い、黙ってのみこんじゃダメです。あきらめたり黙って我慢したりすれば、増税の波はとどまるところを知りません。税金や保険料を納めたために、食うや食わずの暮らしになる。こんな政治は間違っている、その声が広がれば必ず政治を動かす道が開けるはずです」。 今期、目の病気で引退することになった緒方靖夫参院議員は「僕は田村さんを青年運動のリーダーのときから知っています。曲がったことが大嫌いでとことんやりぬく人です。田村さんは、東京中を駆け回って、都民の叫び、願いを全部吸収してきた、最良の後継者です」と語ります。 昨年三月、田村さんは、生まれて初めて工事用ヘルメットをかぶり、防じんマスクをして、八王子の圏央道建設の現場に飛び込みました。大掛かりな工事現場、コンピューター制御の巨大な掘削機。大切な里山の無残な姿でした。昨年夏に視察した都立中野養護学校では、教室の数が足りず教材室や木工室を転用して使っているさまを見てきました。

表舞台での実力発揮を
 石井郁子衆院議員は「田村さんは、共産党の議員の秘書として、本当に汗をかいて私の国会活動を支えてくれました。彼女にはその苦労をぜひ、今度は議員として表舞台で発揮してほしい。期待しています」と。 二十九日になった参院選投票日。東京では五議席を争うたたかいになります。上田耕一郎さん、内藤功さん、井上美代さん、緒方靖夫さんなどと続いてきた日本共産党の東京の議席は、一九五六年以来、一度も空白になったことはありません。 「日本共産党の議席は、庶民への増税を、どんな理由があっても許さないと頑張ってきた議席です。憲法を変えるのではなく、生かそうと呼びかけ続けた議席です。暮らしと憲法がかかったこの選挙、かけがえのない日本共産党の東京での議席を私、田村智子に受け継がせてください」 田村候補のりんとした訴えには、都民の願いがぎっしり詰まっています。 (板倉三枝) (おわり)