日本共産党 田村智子



2010.3.28 新かながわ 掲載


(1) 長野県 小諸時代のこと


働く者の喜びが


自宅前で(小学校時代)

 山崎屋文具店の「ともちゃん」、それが子ども時代の私です。毎日、小諸産のビン詰めの牛乳を飲み、道端の斜面の階段のように続く田んぼをながめ、長野県の豊かな自然に囲まれた子ども時代でした。

 卸売の店でしたから、父は配達、母は品出しと梱包の毎日。父の配達には、姉や弟と一緒によくついていきました。車の中で歌ったり、しりとりをしたり、それがとても楽しかったのです。

 子どもの頃の私は、いつも誰かが働いている姿をみていました。お客さんや問屋さんとのやりとり、そろばんで計算して記帳する父の姿。奈良からの問屋さんが持ってくる、芸術品のような硯や墨。今、思えばそれは「働く者の誇り」を体感する毎日だったように思えます。儲けだけではない。「働く」ことの喜びが、私の周りにはたくさんあったのです。


「人類って何なんだ」と考えた


高校時代 合唱部で活動(写真中央)

 私が進学した野沢北高校(野沢温泉よりずっと南。佐久市野沢です)は、2年生の11月が修学旅行でした。3泊4日で京都・奈良というのが例年のコースでしたが、私たちの学年は初めて広島まで足をのばしました。世界の科学者たちが核兵器の使用は人類滅亡の道と警告を発した頃。先生方の強い意向で、平和教育を修学旅行の目的に取り入れたのだと思います。

 広島に行く、私は期待をともに言いようのない「恐怖」をどうすることもできませんでした。小学生の頃,「はだしのゲン」が刊行され、初めて被爆直後の生々しい写実にふれ、私は原爆が恐ろしくて恐ろしくてならなかったのです。

 目をそむけたい、しかしそれは卑怯なこどだ。その葛藤が中学生、高校生になっても続いていました。

  旅行の一日目は、広島への移動で終わったようなものでした。2日目、いよいよ原爆資料館へ。目をそむけてはいけないと、一つひとつの展示を食い入るように見つめました。

 展示物の最後の方に、大きなガラス戸のショーケースがありました。たくさんの品々が詰め込まれているような展示。そのなかに、手のひらにのるくらいの丸い塊がありました。「なんだろう」、説明文を読んで、その場に凍りつきました。人の骨だというのです。

 熱線と炎で焼かれ、まわりにあったものと溶け合い固まってしまった人の骨。「人間が展示されているのか!』と思いました。思わず合掌していました。しかし、手を合わせて私はなんて言ったらいいのだろう。「安らかにお眠りください」?、核兵器が今も増え続けてまた核戦争が起こるかもしれないのに。一体、人類ってなんなんだ。こんなに恐ろしいことが起こって、今も苦しんでいる人いて、それでもまだ核兵器をなくせないなんて!

  原爆資料館の階段を下りるとき、どうしても涙が止まらなくて、なぜ自分が泣いているのかもわからなくて、力が体中から抜けていくような気持ちでした。



2010.4.4 新かながわ 掲載


(2) 早稲田大学 日本共産党との出会い


学費値上げ反対で


早稲田大学混声合唱団で

 1984年、早稲田大学に入学し東京での暮らしが始まりました。入学後すぐに早稲田大学混声合唱団に入りました。「小学4年生から続けていた合唱を大学でも続ける」、それだけは入学前から決めていたのです。手持ち無沙汰な時間は部室に行く、そして歌い、同学年の友達と話し、先輩に喫茶店に連れて行ってもらう…。故郷を離れた寂しさを、サークル活動で満たしているような毎日でした。

 学生生活にさざなみが起きたのは、入学から半年が経った頃です。

 来年度の入学生から「授業料を値上げする」と大学当局が発表。「学費値上げ反対」の運動が小さいけれど、学生のなかに起こり始めていました。

 在学生の授業料は据え置かれるのですが、私も黙っていることができずにいました。

 ちょうどその頃、新聞で立て続けに、早稲田大学を中退した有名人の記事を読んでいました。五木寛之氏は自分の血を売って学費にあてていた、今も経済的な理由で大学を去る学生はいるだろう、このうえ毎年値上げにふみきれば、「庶民の早稲田」といえるのか、気がつけば、私も運動の輪の中にいました。

 学部ごとの学生集会、値上げに抗議するストライキ、総長と学生との交渉、値上げの強行。怒濤のような日々は、道理が通らない大人社会を目のあたりにする日々でもありました。この運動の中で、日本共産党に入っている学生たちが、社会に真剣に目を向けていることを知りました。

 学費の運動と重なるように、もう一つの運動がキャンパスで始まっていました。核兵器廃絶を求める「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」です。初めてこの署名を手にしたとき、広島で受けた衝撃、核兵器を増やし続けた人類へ絶望感、心にとじこめていたさまざまな思いが噴出しました。


私の初演説は核廃絶


日本共産党の七夕宣伝で

 「ヒロ・ナガ アピール」の学習を通じて、日本共産党が核兵器廃絶への展望をもっていることがわかりました。「人類がつくりだした核兵器は、人類の英知によって廃絶できる」、目の前が開けるようでした。国連第一号決議が「原子爆弾の廃棄」であったことも初めて知りました。戦後の国際政治の出発点は核兵器の廃絶だった、この事実がどれほど私を勇気づけたことでしょう。

 それからの私は、「水を得た魚」とはこのことか思えるほど、署名を集める工夫を次々に発案しました。「反核クッキー」と称したクッキーを焼き、署名してくれた人に「アピール」文の抜粋とともに渡す、被爆者の方からお借りした世界の反核ポスターの展示、時間があればハンドマイクをもち署名を呼びかける、私の初めての演説は核兵器廃絶をよびかける宣伝だったのです。

 この運動を通じて、世の中を変える生き方があることを知りました。党に入れば、両親が心配するだろう、友達から違った目で見られるかもしれない、ためらいはたくさんありました。けれど、自分の心の一番根っこにある思いを裏切ることはできない、悩みに悩んだ挙句、日本共産党に入党。1985年秋、20歳のことです。



2010.4.11 新かながわ 掲載


(3) 結婚 決意を固めたころ


政治や世の中変える職業に


民青の仲間たちと

  学生時代、私の生き方に大きな影響をあたえたのが「国鉄分割民営化反対」の運動でした。分割民営に反対する国労組合員への露骨な差別、あまりにも非人道的な仕打ちを知り、燃えるような怒りに駆られたのです。

  明治公園で開かれた「国鉄まつり」、学生を誘って参加しました。会場では、国労組合員に激励の切符を渡そうと、大きな切符型のメッセージカードが配られました。帰路、新宿駅の改札口で切符を受け取ったのが国労の人。「国鉄まつり」の帰りだと伝えたくて、急いでメッセージを書き、「これどうぞ」と背中に声をかけて渡しました。顔も見ずに走り去ったのですが、わかってくれただろうかと気になり、柱の陰から改札を見てみると…。

 その人は、うつむいてカードを見つめていました。5分、10分、改札を通り過ぎる人の波のなかで、うつむいたままの後姿。組合脱退を当局に迫られ、仲間を裏切れない思いとの狭間で、自から命を絶つ組合員もいたのです。名前も知らないこの人が、どんな孤独や苦痛の中にいるのかを思うと、支えたい、力になりたいと心の底から思いました。「連帯」という言葉が雷のように体を貫きました。

 人間の尊厳をふみにじる政治を許せない、政治や世の中を変えることを自らの職業にしたい。大学4年を迎える前に、この思いがぐんぐんと大きくなっていました。

 1988年4月、両親からの猛烈な反対を押し切って民青同盟の専従者に。東欧・ソ連の崩壊、非自民の連立政権、湾岸戦争、自衛隊の初めての海外派兵…。世界も日本も本当に激動の時代でした。

 湾岸戦争、初めてのリアルタイムでの戦争。イギリスでジョン・レノンの曲が放送禁止というニュースに、「イマジン」と「平和を我等に」を宣伝カーから流し続ける青年のデモ行進を決行。歩行者天国でのダイ・イン。バンドを募集して野外音楽堂で平和コンサート。どうしたら運動が広がるかを考え続けた日々でした。




結婚式で

 PKO法案では、徹夜国会に何度もつめかけました。このとき、一緒に国会で「夜を明かした」男性と、1993年6月に結婚。結婚式を「両親や親戚に私の生き方を伝える場にしたい」と、仲間と話し合いました。これまでの運動で知り合った団体や組合の方々にも来ていただき、席を立つのも大変なほど盛況な結婚式に。私たちの運動は決して孤独ではない、明るく希望に満ちていると伝えたかったのです。

 この結婚式は、私にも大きな転機となりました。戦争とその後の困難を体験してきた両親や親戚は、たとえ思想が違っても無条件に尊敬すべきではないのか、私はこれまで本当に多くの人たちに愛され支えられて、ここまで歩んできたのではないのかと、深く考える機会になったのです。その思いを結婚式で伝えたいと心の底から思いました。

  結婚式のしめくくりに父親があいさつに立ちました。「これまで、遠く離れた場所に植えられたりんごの木が枯れているのでは、誰か水をあげているかと心配してきた。けれど、この木が花をたくさん咲かせ、実を結んでいることがわかった」、こんなに嬉しい一日はありませんでした。



2010.4.18 新かながわ 掲載


(4) 候補者への「スカウト」


下町の心意気胸に刻んで


子どもたちに声をかける

   1995年の終わりに民青同盟を卒業、党国会議員団の事務局へと職場が変わりました。出産・子育ても同じ時期。仕事と家庭の両立が女性にとってどれだけ大変なことかを、何度となく実感することとなりました。

  石井郁子衆院議員、井上美代参院議員の秘書として、小中学校の30人学級、重すぎる学費負担、若者の就職難問題、非常勤職員の待遇改善、医療費3割負担への反撃…、たくさんの国会論戦に関わる日々でした。

 忘れられない論戦の一つが、母子家庭への児童扶養手当削減です。全国各地からメールでファックスで、シングルマザーからの切実な声が連日、議員のもとによせられました。ダブルワーク、トリプルワークでがんばるお母さんが何人もいました。それなのに、収入が少しでも増えれば、児童扶養手当は削っていく、5年経てば半額まで削ることもできる、まるで「もっと働け!」とムチ打つような制度改悪です。

 私も、2人の子どもの母親となり、「あと1時間早く家に帰れれば、ちゃんと子どもと向き合えるのに」と、何度も感じてきました。まして母子家庭のお母さんと子どもです。「そんなにがんばらなくても大丈夫だよ。夕方には家に帰って、子どもと一緒にいてあげて」と支えるのが、政治の役割ではないのか! 何度も涙を流しながら論戦準備をし、国会論戦を見つめました。「構造改革」の政治とは、「もっとがんばれ」と、苦しい立場の人にムチ打つ政治だと痛感する論戦でした。


 この論戦から何ヶ月かが経った頃、東京の足立地区委員長が国会にやってきました。小選挙区の候補者への「スカウト」です。1998年、2000年の参院選挙で比例代表候補者として活動したことがきっかけでした。「あなたの演説を聞いた人たちから、下町向きだ、あの人を候補者にと声があがった」というのです。秘書を続けるか、地区専従となり候補者活動に専念するか…悩んだのは10日ほどでした。「あなたにぜひ」と請われて、これを拒むことができるか、できない! 国会でがんばる党の姿を、もっと草の根で知らせることが必要だ! 2003年5月、国会をあとにしました。送別会をしてくれた秘書仲間には「必ず議員になって帰ってくる」と宣言しての退職です。

 以来、総選挙2回、参院東京選挙区を経て、2010年参院選挙比例候補に。足掛け7年間、庶民のくらし、医療や介護の職場、商店街や町工場を、現場に足を運んで見つめ続けてきました。北風ふきすさぶ日に、家の中から外套姿、毛糸の帽子で迎えてくれて、私たちが部屋にあがって初めてストーブをつける高齢者の方が何人もいました。「医療費3割負担で、がんの治療を続けられない」「一家心中のニュースが我がことに思える。毎日資金繰りのことで頭がいっぱい」「派遣、ネットカフェ難民。20代、30代、日本の未来じゃないですか。僕たちも本当は、日本に生まれてよかったと言いたいんです」――胸に刻んだたくさんの声を、くらしの実態を、今度こそ私が政治に届けます。